「さくら隊散る」

 被爆から63回目の夏。筆者は今年も8月6日午前8時15分に広島、8月9日午前11時2分に長崎の方角を向き、犠牲者の冥福を祈った。
 この時期に、今年は新藤兼人監督の「さくら隊散る」(1988年)を鑑賞した。第二次大戦中に全国各地で公演した移動演劇隊のひとつ、「さくら隊」のメンバーが、広島で被爆し、死に至るまでの姿を映し出す作品だ。
 さくら隊は、国の厳しい統制下でも舞台に立つため移動演劇隊に参加した丸山定夫や、板東妻三郎主演の映画「無法松の一生」で、気品ある未亡人を公演した園井恵子ら9人で構成された。広島に拠点を置き、1945年7月に中国地方の公演を終えて広島に滞在中に被爆。これにより、5人が即死し、丸山定夫ら残る4人も8月中に死亡した。
 映画では、丸山定夫らに縁がある演劇人らのインタビューをはじめとするドキュメンタリー部分と、1945年当時の様子を描くドラマが織り交ぜられている。
 被爆後に生き延びた4人がどのように死んでいったのか、すなわち原爆が4人をどのように殺したのかを描き出す再現ドラマには、原爆の悲惨さ、残酷さを訴える力でみなぎっていた。それはドキュメンタリーで彼らの人となりが浮き彫りにされたからこそではないか。ドキュメンタリーとドラマの相乗効果からは、新藤兼人監督の計り知れない技量が見て取れた。

「クライマーズ・ハイ」

 日航機墜落事故の報道にかかわった群馬県の地方紙社員の人間模様を描く、横山秀夫原作の「クライマーズ・ハイ」が、原田眞人監督によって映画化された。未曾有の大事故に遭遇した新聞記者たちの姿と、新聞社内の人間模様を絡み合わせた原作には引き込まれたが、映画版は原作の「つまみ食い」のように見えてしまった。
 北関東新聞の遊軍記者である悠木(堤真一)は、1985年8月の御巣鷹山日航機が墜落した事故に際し、全権デスクを命じられる。その日、悠木は同僚の安西(高嶋政宏)と谷川岳に登る予定だったが、安西は深夜の街中で倒れ、意識不明になっていた。
 文庫で460ページの原作を2時間25分にまとめ、監督独自の味付けを加味するのは、容易なことではなかっただろう。登場人物や設定をまとめる必要性も理解できる。
 それでも、例えば悠木の生い立ちと、息子との微妙な親子関係などは、作品の主軸の一つのはず。映画版では省略され、設定も変更されたことで、悠木のキャラクターは厚みに欠けてしまった印象は拭えない。安西の息子との関係も説明不足。堤真一は好演していただけに、残念だ。
 原作を読まなければ、群馬県の地元紙の人々が日航機墜落事故に際し、どのような数日間を送ったのかを知る良い機会となる作品だろうが、原作読了後に見ると、どうにも物足りない。
 悠木は上司を怒鳴りつけ、言いたいことを言い、喧嘩もする。しかし、程なくして、同じ上司に特ダネの相談を持ち掛けもする。一般的な会社文化からすれば、なんとも奇妙な人間関係だ。こうした新聞社内の様子をリアルに描出しようと、原田眞人監督は手ぶれのカメラワークを多用していたが、それほど大きな効果は上がっておらず、かえって目障りだった。

劇場版ポケットモンスター「ギラティナと氷空の花束シェイミ」

 子供たちに大人気のアニメ「ポケットモンスター」の劇場版を、初めて映画館で鑑賞した。シリーズ11作目の最新作「劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール/ギラティナと氷空(そら)の花束シェイミ」(湯山邦彦監督、2008年)は、サトシやピカチュウが、現実世界と隣り合わせの「反転世界」の支配を目論む謎の青年ゼロの暴挙を食い止めようと奮闘する物語だ。
 時間を司るディアルガと、空間を司るパルキアが、前作で現実世界で激しいバトルを繰り広げた後、反転世界は黒い雲で覆われていた。反転世界は重力にゆがみがあったり、建物が逆だったりしていて、ここで物を壊せば現実世界に影響を及ぼすのだという。反転世界の主は「ギラティナ」だが、ゼロはギラティナの力を手に入れて反転世界を支配し、現実世界を破壊しようとする。
 今回、主役となるキャラクターの一つは、「感謝ポケモン」のシェイミ。少しわがままなキャラクターながら、最終盤にサトシに示した謝意は心からのものだった。
 一方、「時空」や「次元」といった設定は、子どもたちには難解な気もするが、サトシやポケモンたちの活躍を通じて消化しているようだ。そして、自然の摂理、正義や友情の大切さなどが、登場人物やキャラクターの設定や劇中の言動から伝わってくる。
 ポケモンは、まさに「知育」のシリーズである。
 初登場のシェイミギラティナは、条件によって形状を変える「フォルムチェンジ」をするため、それぞれ2パターンの「フォルム」がある。子どもたちの関心を引く、こうした巧みなキャラクター設定も見事だった。

「崖の上のポニョ」

 宮崎駿監督の4年ぶりの新作映画は「崖の上のポニョ」(2008年)。プレス資料によれば、アンデルセンの「人魚姫」の宗教色を払拭し、幼い子供たちの愛と冒険を描く物語で、「神経症と不安の時代に立ち向かおう」というのが今作の製作意図だという。
 海辺の小さな町の崖の上で暮らす5歳の宗介は、ある日、ビンの中に頭を突っ込んでいた魚の子、ポニョと出会う。お互いに好意を抱き、宗介は家出していたポニョを「僕が守ってあげる」と誓うが、ポニョの父フジモトはポニョを海に連れ戻して―。
 コンピューターグラフィックス(CG)を用いず、すべての場面が手書きで製作されたという。それだけに、アニメーションからは温もりが感じられる。制作陣が完ぺきに描き切ったのが海。中でも、目を施して擬人化した波の描写が、生々しく、見事だ。海の「青」に対する陸の「緑」の美しさも味わい深い。
 一方、物語の方は、友情や親子愛などが各エピソードに詰まってはいたが、ストーリーは中盤以降は難解になり、全体として見る側に想像力を要求するものだったような気がする。「神経症と不安の時代に立ち向かう」という宮崎駿監督のメッセージは、すべての観客に伝わっただろうか? 「優しいアニメーション」と「不親切なストーリー」。アニメーションとストーリーのバランスの悪さが、気になって仕方がなかった。
 映画のラストは、リフレインが印象的な主題歌。関係者の名前を50音順に並べた可愛いエンドクレジットも楽しい。

「ダンサー」

 東京・北千住の「東京芸術センター」で世界各国の名画を上映していると聞き、平日夜の最終回に足を運んでみた。大画面に音響も良い空間の中、計294席に観客は筆者と男性の2人だけ。係員に尋ねたら、「今日は特に(観客が)少ない」との答えだった。「貸し切り状態」で鑑賞したのは、リュック・ベッソンが製作、脚本を手掛けた映画「ダンサー」(2000年、フレッド・ギャルソン監督)。生まれつき話すことができない天才ダンサーの夢や挫折、希望を描いた作品だ。
 ニューヨークで兄と暮らすインディア(ミア・フライア)は、週末ごとにクラブで踊り、観衆を熱狂させていた。ブロードウェーの舞台に立つことを夢見るインディアは、オーディションを受けるが、ダンスでは他の参加者を圧倒しながらも、言葉を発することができないため不合格に。そんなとき、若い科学者アイザック(ロドニー・イーストマン)が「体の動きを音に変える装置」を開発して―。
 インディアがオーディションに落ちるまでは、ダンスにすべてを懸けるインディアのひたむきな姿や、通訳兼マネジャーとしてインディアを支える兄との信頼関係などを描写するエピソード群に、ある程度の「引力」があった。しかし、終盤に「装置」に物語の軸が移ると現実味が薄れ、作品全体が安っぽくなってしまった感が拭えない。映画の終わり方も唐突だった。
 リュック・ベッソンの製作意図は、ミア・フライアの華麗なダンスで観客を魅了しようというもののようで、その点は成功していると言えるだろう。しかし、監督自身の好みのみを追求した、「それだけの映画」と受け取られかねない作品でもあり、残念だった。
 「レオン」以前のリュック・ベッソン作品群が、今、とても懐かしい。

「歩いても 歩いても」

 「誰も知らない」是枝裕和監督の新作は「歩いても 歩いても」(2007年)。阿部寛が演じる主人公が実家から帰る途中、母が忘れた関取の名前を思い出した後、「いつもちょっと遅い」と言うのだが、そのせりふを聞いたとき、映画のテーマや奥深さが一気に筆者の頭と心の中に押し寄せてきた。逆に言えば、それまで起伏がないストーリー展開に、少し眠気を覚えたり、「小津調(=小津安二郎監督作品の作品世界を想起させる)だなあ」と感じたりはしたのだが…。
 ある夏の日。失業中の絵画修復士、横山良多(阿部寛)は、妻ゆかり(夏川結衣)と、血のつながらない息子を連れ、実家に向かう。その日は、15年前に亡くなった良多の兄の命日だった。父恭平(原田芳雄)と母とし子(樹木希林)、姉(YOU)の家族と、良多たちのひととき。さまざまな登場人物が繰り広げるエピソードの中には、横山家の物語が凝縮されている。それらは「親子」や「兄弟」、そして「家族」の普遍的な諸相でもある。
 出演者は演技力に定評がある俳優だけあって、誰もが演じる役として自然に生きているかのようだ。中でも傑出しているのは樹木希林の表現力。普段はひょうひょうとしていながら、入浴中に入れ歯を外して洗うという「老い」を表現する演技や、息子が命と引き替えに助けた者に対する複雑な思いを吐露する際の表情などは、圧巻だった。
 映画の序盤、良多たちを迎えるため、母と姉が料理の準備をするシーンがある。このときの食材の映像が実にみずみずしい。個人的には、枝豆をご飯に混ぜる映像が一番好きだった。
※パンフレットを買おうとしたら「1000円」でした。高すぎます。

「光州5・18」

 韓国南西部の光州市で1980年に発生した「光州事件」をモチーフとした映画「光州5・18」(2007年、キム・ジフン監督)。事件の10日間を克明に描いた初の作品というが、わずか28年前、隣国で軍が市民に銃を向けたという事実に強い衝撃を受けた。
 舞台は1980年5月の光州。タクシー運転手のミヌ(キム・サンギョン)は、弟ジヌ(イ・ジュンギ)の親代わりを務め、看護婦のシネ(イ・ヨウォン)に好意を寄せていた。政治には関心がなかったミヌだが、クーデターで権力を掌握したチョン・ドファンの退陣を求めるデモに参加したジヌが銃弾に倒れたことで、軍と対峙する市民軍の一員として銃を取るが…。
 軍に父親を殺されて涙を流す男児。「忘れないで」と訴えて死んでいく市民軍の兵士たち。「暴徒」と呼ばれて「暴徒じゃない」と軍兵士らに銃を向けるミヌ。軍との最後の戦いを前に、一度は戦列を離れながらも、仲間たちのことを思って戦線に復帰するミヌや市民たちの姿も描かれていた―。
 極限下で実際に繰り広げられたであろう、こうした市民の決断や行動、さまざまな人間模様が、作品では一つずつ、丹念に積み重ねられていく。物語が進むにつれて、憤りと悲しさで胸がいっぱいなった。
 そして、ラストシーンの幻の婚礼写真。悲劇の後だけに、シネの悲しげな表情に心を強く打たれた。
【参考情報】
 (1)「ワウ!コリア」内の「韓辞典」に「光州事件」の説明があります→http://www.wowkorea.jp/dictionary/0003/0001/0002/
 (2)光州事件を扱った作品のうち、テレビドラマ「砂時計」はキム・ジョンハク演出、チェ・ミンス主演で、放送時に最高視聴率が60%を超えた伝説のドラマだという。